toprelating>類推の山

『類推の山』ルネ・ドーマル
能 動 的 形 而 上 探 検 ノ ス ス メ





表紙にルネ・マグリットの「ピレネーの城」を掲げ、シュルレアリスム小説の傑作と謳われるこの小説。シュルレアリスムの何たるかは脇に置いておくとしても、単なる叙事的な小説としては読めない、読ませない、象徴的な話である。私は文章を普通に読むのと平行して、さらっと深読みをするタイプだが、これは何故か違う読まされ方をした。途中で読むのを止めて考えてしまうのだ。あたかも山登りの途中で面白いものを見つけてそこで留まってしまうように。別にシャレた喩えを狙っているわけでなく、いや全く狙っていないと云えば嘘になるが、軽く読み終わってさっさと新しい本に行けそうなものを、本当にゆっくりじっくりにんまりと読んだのだ。

話は主人公がある科学雑誌に投稿した「類推の山」なる山についての論文から始まる。書いた方としては詭弁にも似た戯れだったのだが、その説を真に受けた人物が主人公にコンタクトを試みてきて、実際に類推の山を登ろうという計画が持ち上がっていく。 類推つまり「あれがああなら、こちらはこう」の論理はとんとん拍子に進み、様々な技能を持つ人間達が探検隊を結成し、航海の果てに類推の山がある大陸に辿り着く。到着した「猿の港」や類推の山を登る過程には様々なルールが存在しており、主人公達もそれを守りながら類推の山を登り始める。

この話の面白さは、目の前に描き出される奇想天外な冒険譚を読みつつも、常に「別の意味」を探し出せるところにある。能動的な感性で読み進めるといっそう面白くなるのは、『紙葉の』と同じだ。ただ、『紙葉の』では、に対する様々な解釈が作中に織り交ぜられ、読者はそれを読むことによっての周囲をぐるぐると回るだけだった。(おまけにの中はからっぽだ!)『類推の山』では、読者は一行の旅の様子を文章として読みながら、自分でその意味を考えることになる。自らも一行の後を追って山を登るのである。それは「作品を理解する」とか、「解釈を試みる」というのとは違って、まさに今本を手にしている自分にも関わってくるリアルな事柄だ。しかも、たぶん、見出した意味にはかりそめではない重みと深み、決して小説との付き合いのみで終わらない大きさがある。その点、幾ら探っても進んでも登っても下っても虚無に落ちていくとは違った安心感を齎してくれると、要らぬ保証をさせていただく。
冒頭に登場する主人公の論文は、一連の旅を抽象的なものとして考えるように読者を誘っているようでもある。山を登るとはどういうことか?そして山とは何か?これは冒頭の主人公の論文で答えが出ているともいえるが、読み終わってからもう一度考えるに値するだろう。

……「読み終わって」と書いたが、この小説は第五章の、しかも文の途中で終わっている。別に気を衒った計らいでもなんでもない。著者のルネ・ドーマルが執筆中に逝去してしまったのだ。第七章の完結は然程遠くなかったに違いないのに、残念でならない……requiescant in pace.

しかし、親切にもそれを補うようにと補講や解説が添えられている。

ぶっちゃけ、これがあるが故に大変なことになった。
それらと第五章の途中までで身に付けた"力"があれば、類推の山は自力で登れなくもなさそうだからだ。

(しまった、私もまだまだ受動的に読んでいるだけだとばらしてしまった……)


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