3.『二人の王と二つの迷宮』――最も恐ろしい迷宮とは
topLeaves and Borges>3.『二人の王と二つの迷宮』


 迷宮としてアッシュツリー・レーンのを見たときに最も恐ろしい点は一体何だろう。空間が族の団欒に投げ掛ける影だろうか。踏み入れたが最後帰って来られる保証の無い大きさだろうか。刻一刻と形を変えるという、生き物に似た性質だろうか。それとも精神を蝕む得体の知れない影響力だろうか。もしかしなくても人によって何が一番恐ろしいかは違うので、最たる要素を探すのはナンセンスである。しかし今回は敢えて繰り返し強調される「何も無い」という点に注目する。

 「何も無い」――この四文字からも多数の意味が引き出せるが、アッシュツリー・レーンの迷宮部分には何が無かったのか。何も無い。何が無い以前に、足りる足りない以前に何も無い。私的にはあのの迷宮部というのは空間だけで、変化する地形全ては現象に過ぎないと解釈している。あの迷宮に過酷な自然状況が在り、それによって肉体的な被害を被った事実は多いが、中には人を取って食う怪物や人を唆し狂わせる悪魔も居なかったし、人を傷つけるべく据えられたトラップも無かった。空間を満たしていたものは闇と寒さで、その闇に投影された自分自身が最も耐え難い難関だったのではないかと思うが、それはまた別の機会に。

 さて、三段落目になってようやくボルヘスに出てきて貰う。今回は短編集『エル・アレフ』内、『二人の王と二つの迷宮』である。見開き一頁以下のこの物語はこれよりひとつ前の話『アベンカハン・エル・ボハリー、自らの迷宮に死す』の中で登場人物が語っている話の詳細であり、補足的なものになるのだが、一つの話と見ても差し支えない。

 バビロニアの王が、何人も入るのを躊躇い、一度入れば決して出られないような複雑な迷宮を作らせた。時が過ぎてアラブの王がバビロニアを訪れた際、バビロニアの王はアラブの王をからかうつもりで迷宮の中へと入らせる。当然アラブの王は出られず、その迷宮を彷徨い歩く。人如きの業では無いと人々に呆れられるほどの迷宮である。当然出られない。しかしアラブの王は神に助けを求め、迷宮の出口を見つけ出す。バビロニアの王と再び合間見えてもアラブの王は文句一つ言わなかった。しかし代わりにこう言ったのである――私はアラビアに別の迷宮を持っているから、神の御心に叶えばこれをお見せすると。
 その後帰国したアラブの王は兵を集めてバビロニアを襲い、あの王を捕まえると駱駝に乗せて砂漠のど真ん中に連れて行った。アラブの王の曰くは次の通りである。


「おお、時間の主よ、世紀の実体にして、記号である王よ!バビロニアであなたは多くの階段、扉、壁のある青銅の迷宮で私を道に迷わせようとした。今、全能なる神は、貴方に私の迷宮を見せることをよしとされた。そこには登るべき階段も、押し開けるべき扉も、駆け巡るべき辛い回廊もなければ、行く手を阻む壁もない」

平凡社ライブラリー『エル・アレフ』木村榮一訳  p.177

 そして皆さんお察しの通り、アラブの王はバビロニアの王を砂漠の真ん中に置き去りにしたのである。

 残念な事に、これが歴史的事実に基づいた話かどうか私には判らない。しかし検証をサボっても問題は無かろう。このシンプルな話は「迷宮」という観念を拡大し、同時に物理的な果てしない広がり、其処に自分を蝕む自然以外の何も存在しない事の恐ろしさを的確に示してくれる。アッシュツリー・レーンのの内部と併せて、その恐怖を想像して頂きたい。しかし、ネイヴィッドソンが留まり続けた闇と寒さのみの空間を思えば、空も星も月も砂もある砂漠など安らぎすら覚えるものである。

 ダニエレブスキーさん、如何でしょう。


追記:晶文社クラシックス『ボルヘス怪奇談集』を立ち読みしたところ、『二人の王と二つの迷宮』の話を偶然見つけた。この話はボルヘスの創作ではないのかもしれない。詳細は失念。



2006.04.08


topLeaves and Borges>3.『二人の王と二つの迷宮』